八重洲、その地名の由来

いまいです。

東京駅八重洲口の『八重洲』、(東京都中央区八重洲1丁目、2丁目)その地名の由来が江戸時代に日本で活躍したオランダ人「ヤン・ヨーステン」にあることをご存じでしょうか。フルネームは、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン。あえて言おう、碧眼のサムライと。

ヤン・ヨーステンオランダ人の貿易家

ヤン・ヨーステン(Jan Joosten van Lodensteyn)はオランダ人の貿易家です。慶長5年(1600)4月にオランダの商船『リーフデ号』に乗って、ウイリアム・アダムスらと共に、豊後の臼杵(大分県)に漂着しました。この漂着をリーフデ号事件といいます。日本に到着した初めてのオランダ船です。このヤンヨーステン一行、オランダを出発したときは5隻の船団で、110人ほどの乗組員がいました。しかし、2年にも渡る長い航海で、悪天候などにより船団は離れ離れになったり沈没したりして、結局はリーフデ号1隻のみでなんとか大分に漂着することになります。乗組員は110人が24人になっていたそうです。また、漂着した当初は海賊と勘違いされ、罪人同様の扱いを受けていたとのことです。遠路はるばる日本まで来て、悲惨ですね。

 

徳川家康の家来になる。

船に乗っていた船員の対処に当ったのが徳川家康でした。家康は牢に入れていたヤン・ヨーステンらと大坂城で面会。彼らに尋問をします。ヤン・ヨーステンがウイリアム・アダムス(イギリス人)と共に、「オランダは日本と純粋に貿易だけをしたい」と説得すると家康は大いに納得しました。更には熱弁に心を動かされたのか、家康は二人を江戸に呼び、家来として朱印状を与え貿易関係の仕事を任せることにしました。1600年といえば、同年9月には関ヶ原合戦が起きる年なわけですから、微妙な外交問題の影響も少なからずあったでしょう。

八重洲地下街の外堀地下1番街にいるヨーステン。

徳川家康から江戸に屋敷と、ヤン・ヨーステンは『耶楊子(やようす)』、ウイリアム・アダムスは『三浦按針』という日本名まで与えられたのです。ちなみにふたりとも日本人女性と結婚し、子供も産まれました。ヨーステンは日本とオランダの貿易発展に尽力しました。オランダ東インド会社の日本貿易開始以後は平戸商館に協力しました。手広く貿易に携わるも、コーチシナから日本へ帰る途中で船が難破して死亡。強運に恵まれていたとも言えるヨーステンでしたが、最後はやはり海の男としてその生涯を閉じました。

 

耶楊子(やようす)が訛って八重洲。

ヨーステンに与えられた屋敷の場所を彼の日本人名『耶楊子(やようす)』と呼び、いつしか訛って?『八代洲(やよす)河岸』と呼ぶようになりました。その後、「八代洲(やよす)」「八重洲(やえす)」となり、明治5年(1872)に町名になったのです。耶楊子 → 八代洲 →八重洲

碧眼(へきがん):青系統の目のこと。または西洋人を意味する。

日蘭修好380周年を記念して建てられた、ヤン・ヨーステン記念碑。この碑は八重洲中央口を出て、八重洲通りをまっすぐ行った横断歩道の中央分離帯にあります。平和の鐘の前です。

↑リーフデ号

ヤエチカ(八重洲地下街)はヤンヨーステン推しです。多くの人が、この外国人誰?と思っているのでは。。。近くの外資系証券会社の人?

400年経った今でも人気のヤンヨーステン。知る人ぞ知る、という感じですよね。こちらもどう見ても外国人ウェイター。今回は、東京駅の前八重洲の地名の由来についてご紹介してみました。

いまいでした。