いまいです。
今回は、浅草寺の東側に隣接する(浅草寺境内にある)浅草神社をご紹介します。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉が子供時代の遊び場として設定されていた浅草神社です。浅草神社を参拝しつつも、こち亀に思いを馳せるパワースポット巡礼第13回です。両津勘吉のパワーを貰っちゃいましょう!
狛犬が迎えます。
いかつい?顔の古そうな狛犬が迎えます。狛犬は「前髪がある、目が楕円形、あごひげが巻いている、鼻は短い」という江戸風狛犬の特徴をよく備えているものだそうです。
ご縁起
628年の3月18日、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・檜前武成(ひのくまのたけなり)の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が何度も何度も引っ掛かりました。このことを、この地域の知識人だった土師真中知(はじのまなかち)に相談しました。この人形は、聖観音菩薩像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈るようになりました。その後に、土師真中知は僧となり、自宅を寺としました。これが浅草寺の始まりです。
土師真中知の没後に、彼の子孫の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って上記三人を神として祀ったのが神社の起源であるとしています。
実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられています。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っています。明治の神仏分離によりお隣の浅草寺とは別法人になりました。そして明治6年に浅草神社に改称したとのことです。
「三社様」の名称で親しまれています。
この三人を郷土神として祀る三社権現社、「三社様」の名称で親しまれています。
- 檜前浜成命
(ひのくまのはまなりのみこと) - 土師真中知命
(はじのまなかちのみこと) - 檜前武成命
(ひのくまのたけなりのみこと)
例大祭は三社祭として有名です。
5月の第三週の金・土・日曜日は例大祭があります。三社祭として全国的に有名ですね。
社殿は徳川家光
1649年(慶安2年)に第三代将軍・徳川将軍家光により、建立寄進されたとのことです。
日光東照宮などと同じ権現造り(本殿・幣殿・拝殿からなっており、幣殿と拝殿が渡り廊下でつながれている)と言う建築様式です。関東大震災や戦災を耐え抜いた、400年近い歴史を持つ建物です。
縁結びのパワースポット「夫婦狛犬(めおとこまいぬ)」
境内には、互いに寄り添って置かれている小型の狛犬があります。「夫婦狛犬(めおとこまいぬ)」です、普通は左右に一対で置かれているものが多いのですが、寄り添って置かれているので「良縁、恋愛成就、夫婦和合」のご利益があるとされています。恋愛成就や縁結びのご利益があるパワースポットです。その上かわいいですよ。こちらも是非ともどうぞ!
おみくじも洒落が効いていて、めでたい
何が入っているのかと思ったら、鯛の形のおみくじでした。紅白あって、とてもかわいいです!
鯛みくじで、めで鯛!!
こち亀の石碑「友情はいつも宝物」
浅草神社には多くの石碑が建立されています。その中でも、ひときわ目を引くのがこちら。
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」こち亀の石碑です。
こちらの碑は平成17年(2005年)に、こち亀の単行本が累計発行部数1億3千万冊を突破したことを記念して設置されました。主人公である両津勘吉の小学生の頃の遊び場が浅草神社だったということからです。両さんは台東区の佃煮屋の出身という設定です。単行本57巻の「浅草物語の巻」をはじめ多くのシーンで浅草神社が登場しています。小学生の両さんが境内にタイムカプセルを埋めているシーンが描かれています。かっての悪ガキ両津勘吉は 警察官に、かっての優等生は逃亡犯になっていたというお話しです。木の下に埋めたベーゴマの話を持ち出して、逃亡犯は自首することになります。
境内には「タイムカプセル埋蔵の碑」もあります。
こちらは、こち亀の石碑の設置を記念して置かれたもので、
全国のジャンプ読者から集められた「10年後の自分に宛てた手紙」がタイムカプセルとして埋められたということです。このタイムカプセルは、平成28(2016年)に掘り出されて(こち亀の連載40周年記念)手紙を書いた読者のもとに届けられたということです。
被官稲荷神社と新門辰五郎
浅草神社の裏手には被官稲荷神社もあります。
被官稲荷神社
安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。
新門 辰五郎(しんもん たつごろう)
1800生年? 〜明治8年(1875年)9月19日死去。江戸時代後期の町火消の頭、いわゆる侠客です。実の父は飾職人の中村金八。幼くして父を亡くし、火消しの町田仁右衛門の「を」組に拾われます。数々の武勇伝で男を上げ、18歳で町田仁右衛門の娘の錦を貰い養子縁組し、文政7年(1824年)に町火消の「を」組を継ぎます。火消の棟梁としてだけではなく、侠客や博徒、的屋や香具師などの元締め、顔的な存在でありました。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の側室となっています。徳川慶喜の信任も篤かったと言います。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院、新門の辺りの責任者であることからそう呼ばれていました。を組の火消し213人の他、彼の息がかかった子分は約3000人に及んだといわれていました鳥羽・伏見の戦いの後に慶喜が大坂から江戸へ逃れた際に、大坂にとって返し、大坂城に残されたままになっていた徳川家康の馬印「金扇の大馬印」を取り戻して、これを掲げたまま東海道を下って無事に送り届けたといいます。
今回は、浅草神社をご紹介しました。こち亀ファンのあなた、
浅草神社で「こち亀の聖地巡礼」なんていうのはどうですか?
いまいでした。
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