藤原純友という海賊王になろうとした男

いまいです。

今回は、承平天慶の乱において、瀬戸内海で暴れた藤原純友のお話をします。承平五年(935年)瀬戸内海の海賊達が騒ぎ出し、伊予国(愛媛県)の米三千石が略奪されるという事件が起こりました。この海賊達の首領が、元伊予国の官吏であった藤原純友です。藤原純友は、藤原北家の出身で名門の出なのですが、早くに父を失い都での出世の望みも無く伊予国の地方官吏となります。そして、彼はその任期が過ぎても現地に留まって、海賊達の首領になったのです。

役人が海賊に

藤原純友は伊予国の日振島(ひぶりじま)を根城に、数千の海賊船を率いていたといいます。また、海賊の中の首領には純友と同じように出世の道を絶たれた役人達が数多くいたとのことです。中央で出世することができない者達が地方官吏として出向き、そのまま海賊となって居座り続けるという当時としては驚くべき事件に発展したのです。権力を欲しいままにする一部の貴族達への不満が、その一族内から起きたのです。

純友:どうせ出世できないなら、ひと暴れしてやりたい放題やるか!

甘い言葉で懐柔策

海賊達の横行に対して朝廷は、慌てて懐柔策をとります。首領である藤原純友に海賊を鎮圧するように命令を出して、朝廷側につくよう呼びかけたのです。それまでの海賊行為を見逃すというのですから、この時は朝廷側に投降する者も少なからず出ました。一時的に海賊の動きは静かになったのです。
やっぱり、政府側の甘い誘いに乗る者もあったのでしょう。人間、利だな。こわ!

海賊業まっしぐら

しかし、肝心の藤原純友をはじめとする大物クラスは誰も降っていませんでした。そのまま、海賊業まっしぐらです。やっぱり、わかっていたんでしょうね。朝廷側の考えが。。。

純友:騙されんぞ。あいつらは腐っている!海賊王に俺はなる!(あれ?どこかで聞いたフレーズwww)

そして、天慶二年(939年)に、関東で挙兵した平将門の乱で朝廷が慌てている最中に、藤原純友率いる海賊達は再び暴れだすのです。備前国(岡山県)、備後国(広島県)、播磨国(兵庫県)を荒らし回り、中央の出先機関を襲いまくりました。瀬戸内海は完全に海賊達のやりたい放題の海と化したのです。海賊ですから、いつどこからやってくるのか分からない。その拠点も定かでは無く、神出鬼没の行動に中央政府は対応に手を焼きます。大阪の淀川を遡って京都に侵入した者もいたというほどでした。もちろん、略奪や放火は当たり前です。

純友:海賊王に俺はなる!本当になっちゃった。

官位を与える懐柔策

そのような事態に朝廷はまたもや弱腰の懐柔策をします。今度は純友の官位を従七位から従五位に上げて、朝廷側にしようとしたのです。海賊王に官位与えて静かに従えって発想、まじ笑えます。
当然、藤原純友はそのような考えを見透かしていました。そして、その勢いは増すばかりでありました。現在の、淡路、香川、愛媛、兵庫、岡山、広島、山口の沿岸部一帯は彼らの制圧下になり、福岡の太宰府までも襲ってしまったといいます。これはもはや、大反乱ですね。海賊の域を超えてます。

これに対して、朝廷は941年(天慶4年)に追捕使として小野好古(おののよしふる)源経基(みなもとのつねもと)を中心とした兵を差し向け、藤原純友追討を実行することとなります。しかし、藤原純友の軍勢は1500隻以上、小野好古は200隻程度と兵力差は明らかでした。

思いもよらぬ綻びが…。神出鬼没でなくなる

ここで思いもかけぬ綻びが発生します。純友軍の副将の一人であった藤原恒利(ふじわらのつねとし)が自陣から朝廷側に投降してしまったのです。そして、海賊達の隠れ家や拠点、秘密の多くを教えてしまいました。
もはや、海賊ならではの神出鬼没の行動はできなくなりました。神出鬼没でなくなった海賊は崩れました。最大の武器を失って敗れたわけですね。941年2月に追討軍は攻勢に転じて、伊予国で藤原純友の軍を打ち破りました。

やはり海賊は、どこからともなくやってきて、どこへともなく去っていくから強いのです。内通者を出してしまい、その隠れ家や拠点の情報を全て知られた海賊に明日は無かった。。。

海陸両方から、小野好古軍に追い込まれ連戦連敗。最後は藤原純友も捕まり、その子供と共に斬首されました。承平天慶の乱ここに終了。

【神出鬼没】(しんしゅつきぼつ)

〔「淮南子兵略訓」より。鬼神のように自由に出没する意から〕

どこでも好きな所に現れて、目的を達するとたちまち消えてしまう事。「神出鬼没の怪盗」

出典:大辞林 第四版

いまいでした。